たーさんブログ

自分の人生を再構築したがっているおっさんのつぶやき

親にとって「お弁当作り」は子どもへの愛情、子にとってお弁当は「コミュニケーションツール」

こんにちは。

 

前向きに生きていこうとするのは大切なことですが、この歳になるとふとしたことで昔のことを思い出し、懐かしむものです。

私は、 

時々弁当を作ります

最近、朝時間があるときになかなか起きてくれない妻に代わって、幼稚園に行く子どもの弁当を作ることがあります。

まず朝起きて、早々にお米をといで炊飯器でごはんを炊きます。

(タイマーという便利なものがあるのを、先日説明書を読み直してはじめて知りましたが、いまだに使いこなせておりません。)

ごはんが炊き上がるのに約26分。その間に、玉子焼きをつくったりソーセージを焼いたり、たまには冷凍もののハンバーグや白身魚のフライをチンしておかずの準備をします。そうこうしているうちに、ごはんが炊き上がると、そのごはんに鮭フレークをかけたものを、起きてきた子どもに食べさせます。と同時に弁当箱にごはんと先に作ったおかずを盛り付け、最後にごはんにシラスをまぶして軽く醤油を数滴垂らして、最後に冷ましてできあがりです。

男親の作る弁当なんてこんなもんでしょう、と自分に言い聞かせています。もちろん、子どもが帰ってきて空になった弁当箱を渡されると、やはりうれしいものです。

また、今まで妻が作った弁当のときは嫌いで残していたソーセージを、自分が味付けして弁当に入れたときにはじめて完食し、それ以来ソーセージを食べれるようになったときはなおさらうれしいもんでした。

(妻に対する優越感も、、、)

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小さいころの自分の弁当は簡素なものでした

世の中キャラ弁とかいうものが流行っておりますが、自分にはとてもそのようなものを作るワザもないし時間もありません。

(妻にもないと思います。あるわけありません!)

世の中のお母さま方の手際の良さにはつくづく平伏してしまいます。

 

自分が小学校のときは弁当を毎日持っていっておりましたが、教室に保温器という弁当を温める機械があることをいいことに、うちの母親は週に1回はレトルトのカレー、週1回は麻婆豆腐とごはんでした。当時まだ種類の少なかったレトルトカレー(たいていボンカレー)とごはんを持参し、昼休みに温まったカレーをごはんの上にかければカレーライスの出来上がりでした。今のようにいろんな種類がない時代でしたが、意外に飽きないものです。麻婆豆腐もレトルトのもので、同じようにごはんにかければ立派な麻婆丼でした。子どもにとってボンカレーや麻婆豆腐は最強です。弁当の時間になると、白いごはんの入った弁当箱を持ってきて、「分けてくれ」と数人の行列ができました。

ほんと、親には感謝です!

ドイツでも同じように弁当は簡単! 

うちの母親は、弁当作りはあまり好きではありませんでした。レトルトのとき以外も弁当作りは全くマイペースでした。

弁当箱いっぱいに白いごはんを敷き詰め、その上に三色のふりかけを国旗のようにまぶした「三色ごはん」や白いごはんにお椀と生卵を持たされた「卵かけごはん」は、その究極の形でした。

そんな弁当でも、自分はあまり気にしませんでしたし、好きでした。

実は私は生まれてすぐに父の仕事の関係でドイツに移住し、小学校低学年までそこで過ごしていました。幼稚園には給食がありましたが、小学校は弁当でした。

正確に言うと、小学校では1クラスを2グループに分け、片方は朝8時はじまりで、2コマ終わった10時すぎには下校、もう片方は入れ替わりに10時すぎに始まり、2コマ終わった12時すぎに下校でした。どちらのグループもお昼ごはんは家に帰ってから食べられるのです。

ただ育ちざかりの子どもたちのことですから、途中どうしてもお腹が空きます。授業2コマの間に20分の休み時間があって、そのときにお腹が空いた子は家から持ってきた弁当を食べていました。弁当と言っても日本のような弁当箱に入ったものではなく、記事にあるようなコッペパンにハムとチーズをはさんだものだったり、黒パンにジャムを塗ってサンドしたものだったり、時にはリンゴを持ってきてまるごとかじるような子もいました。パンや果物はアルミホイルでくるんだり、ビニル袋に入れられて持たされ、それをもって校庭でみんなと遊びながら食べていました(休み時間には全学年全員校庭に出なければいけませんでした)。

遠足でも日本の弁当は人気!

小学校の授業の一つに、月に1回くらいの割合で近くの森に行って、季節の草花を学んだり、どんぐりや落ち葉を拾って糊づけして工作したりする授業がありました。いわゆる「遠足」に当たるのでしょうけど、そのときも持ってくる弁当は同じようにサンドウィッチや果物、そして飲み物は日本でも懐かしい「カプリソーネ」や紙パックのジュースでした。

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 カプリソーネ(WILD社)

記事の中のフランスと同様に、ドイツでもみんなの弁当は簡素なものだったので、うちの母親は弁当で苦労することは全くありませんでした。だって、朝食の最中にパンにバターを塗ってハムとチーズをはさんで弁当はできあがりですから。

でも時に料理好きのうちの父親が気を利かして弁当を作ったときがありました。なんてことはないおにぎりとから揚げ、ソーセージに卵焼きをタッパに入れて持たされたのでした。

でもそんな弁当は当然珍しいので、遠足の弁当の時間には友達に囲まれてから揚げを分けたり卵焼きを分けたりで、日本の弁当と真逆の状況で人気者でした。

親の策略だった!?

ちょっと前に久々に両親と食事することがあって、そのときに子どもの弁当の話題になりました。

実は、私の弁当を作るときにうちの親は多少はメニューについて考えていたようです。ドイツにいたときは言葉があまりできなかった私に少しでもまわりに興味をもってもらえるように日本らしさを強調した弁当を作ったと、父親は言っていました。

同じ発想で途中から日本の学校に編入した自分に早く友達ができるように、あえてみんなに分けてあげられるカレーなどのメニューを持たせたと、母親は言っていました。

「どれだけ、あなたのことを考えていたか。」

なんて、親に言われたときは少しうれしくなりました。

(父の言い分はともかく、母のは今思うととってつけたような感じがありますが)

 

弁当を作るうえでは、凝ったキャラ弁にするのもよし、いろいろと栄養バランスのととのったメニューにするのもよし、うちの親のように簡単に済ましてしまうのもよし。

子どもの私にとってうれしかったのは、好きなメニューが入ってたこと、昼休みに友達と楽しく食べることができたこと、そして帰ってから弁当箱を親が振って私が全部食べてきたのを確認し、笑顔でそれを片付けるのを見れたことでした。

 

お弁当は、子どもにとって、友だちとの、そして親とのコミュニケーションツールの一つだとつくづく思うたーさんでした(終)